東広島キャンパスの遺跡/西ガガラ遺跡第2地点

提供: 広島大学デジタル博物館
ナビゲーションに移動検索に移動

広島大学 > 広島大学デジタル博物館 > 文化財博物館 > 東広島キャンパスの遺跡 > 西ガガラ遺跡第2地点

西ガガラ遺跡第2地点

第2地点[1]は標高215~225mの丘陵平坦部(段丘面)を中心に立地し、旧地形が良好な形で残存しています。遺跡の北部を中心に発掘調査を実施しており、旧石器時代、縄文時代、中世(室町時代?)の遺構・遺物が多数発見されました。旧石器時代では、試掘調査を含めると3時期の遺構・遺物が見つかっていますが、発掘調査では丘陵平坦部を中心に後期旧石器時代の前半期の遺構・遺物が発見されました。縄文時代の遺構・遺物は調査区のほぼ全域に分布していますが、密集度はあまり高くありません。縄文時代早期中頃を中心とする時期のものと思われます。中世では炭窯跡1基が発見されたのみです。 第2地点で発見された遺構を試掘調査も含めてまとめると、次のようになります。

旧石器時代
石器ブロック9基、集石1基、土坑4基
縄文時代
土坑5基、炉跡1基
中世
炭窯跡1基

旧石器時代の遺構・遺物分布状況


旧石器時代の遺構・遺物は、試掘調査の結果もあわせて考えると、丘陵平坦部のほぼ全域に分布していると推定されます。発掘調査区内では、石器ブロック5基が見つかっており、石器ブロックと重複あるいは近接して、土坑、集石などの遺構が位置しています。丘陵平坦部を中心として生活が営まれた様子がうかがえます。発掘調査区の南側には丘陵平坦部が広がっており、試掘調査区を実施しています。石器ブロック4基、土坑1基などが発見されています。出土石器の様相から、第1・2ブロックは後期旧石器時代前半、第3・4ブロックは後期旧石器時代後半に位置づけられます。

1.第7ブロックの石器類出土状況

第2地点では9基の石器ブロックが発見されています。第1~4ブロックは試掘調査で発見したもので、石器ブロックの一部を調査しただけです。発掘調査では第5~9ブロックの5基の石器ブロックが発見されました。その中で、第7ブロックは最大の規模をもつものです。東西12.5m、南北9mの規模で、3m前後の3つの小単位に細分できます(写真の土の柱は、石器類が出土した位置を示しています)。出土の石器は、ナイフ形石器、掻器、抉入石器、彫器、石核などがあり、後期旧石器時代前半(約25000年前)に位置づけられます。

2.9号土坑の遺物出土状況

  平面隅丸方形を呈し、長さ約2.2m、幅約1.2mの規模をもつ大型土坑です。2段掘りの構造で、中央部が深くなっており、深さ約35cmの規模があります。土坑内から石器類や小さな焼礫などが出土しましたが、近接して位置する第8ブロックなどからの流れ込みと思われます。形態から見て墳墓の可能性もありますが、性格は不明です。 このほかに、第2地点では、土坑3基、集石1基が発見されています。8号土坑は長径1.8mの大型土坑で、微小焼礫が多数包含されていました。10号土坑は風倒木痕と思われます。11号土坑は大半が削平されていました。1号集石は1×2mの範囲に5cm程度の小礫が集中するもので、礫は焼けていますが、礫群とは少し性格の違うものと思われます。

縄文時代の遺構・遺物分布状況

縄文時代の遺構・遺物は、発掘調査地区以外では確認されていませんが、地形から見ると試掘調査区にも広がっている可能性があります。発掘調査区ではほぼ全域に遺物が分布していますが、丘陵平坦部では炉跡が1基位置しているのみです。丘陵平坦部の北西側は埋没谷に接して平坦地形が広がっており、土坑5基が分布しています。雨天時には一部流路となることから生活地としては条件が悪く、遺物の分布もわずかです。土坑の性格は不明ですが、貯蔵穴が含まれている可能性があります。出土遺物は、石鏃、石錐など石器類を主体として、わずかに縄文土器が出土しました。

1.炉跡

調査区北東端部に位置する地床炉(じしょうろ)です。平面楕円形を呈し、長径90㎝、短径70㎝、深さ36㎝の規模をもっています。一度大きく作り替えられており、作り替え後は約 2/3の大きさに縮小しています。埋土中からは焼土塊や木炭粒が多数出土しました。 このほかに、第2地点では、土坑2基が発見されています。縄文時代の遺物は広く分布していますが、発見された遺構は多くありません。狩猟のための一時的なキャンプ地などとして利用されているようです。出土遺物から縄文時代早期(約8000年前)に位置づけられます。

中世の遺跡・遺物分布状況

調査区南西部に位置する炭窯跡です。丘陵の西端に位置しており、丘陵緩斜面をL字状に削平して平坦面を造成し、平坦面の中央部のやや西側に炭窯を造っています。炭窯本体は平面隅丸長方形を呈しており、長さ1.6m、幅1.4m、深さ30cmの規模で、天井を造らない形式です。床面に厚さ5cm程度の粉炭層が残されており、壁はよく焼けていました。炭窯の南側は広く平坦な作業場が造り出されており、掻き出されて粉炭が堆積していました。炭窯の周囲は防湿用の暗渠排水溝がめぐっていました。 出土遺物がないため所属時期はわかりませんが、炭窯が天井を造らない形式であることや防湿構造をもつ丁寧なつくりであることなどから中世の可能性があります。


関連ページ