考古学の時代区分/古墳時代)
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古墳時代
古墳時代は弥生時代を通じて地域ごとに形成された政治的なリーダー(首長、豪族)が連合して国家的なまとまりが認められるようになった時代です。古墳時代になると、墳丘の平面形は錠前の鍵穴のような形をした前方後円形、内部主体は竪穴式石室、主要な副葬品は青銅鏡、玉類、鉄剣など、墳丘には埴輪、葺石などを標準とした前方後円墳が日本各地に作られるようになります。連合にあたって前方後円墳祭祀という共通の祭祀形態をとるようになったと考えられます。弥生時代の終わり頃には大きな墳丘(弥生墳丘墓)と貴重な文物を副葬品としておさめることができるほど、各地の首長は政治的に成熟していました。しかし、墳墓の形や内部主体(棺を収める施設)、副葬品の内容など地域ごとで独自の様相を示していました。連合の中心となったのは畿内(現在の大阪府・京都府や奈良県など)の首長層(大和政権)と考えられますが、連合の際に各地の祭祀を取り入れ、一つの祭祀形態にまとめられたのではないかと考えられています。これが前方後円祭祀です。 古墳時代の中頃まで、とくに初め頃は畿内の首長層は抜きんでた存在ではありませんでした。吉備(きび、現在の岡山県および広島県東部の地域)や出雲(いずも、現在の島根県東部)などの首長層は畿内の首長層に匹敵する勢力を誇っていたことが古墳の様相から知ることができます。畿内の首長層は各地の首長層の力を様々な方法を用いてそぎ、次第に政治的な力を強めていきますが、とくに古墳時代の中頃から他の首長層を圧倒するようになっていき、大王の存在が明確になっていくようです。古墳時代の後半(後期)には一層政治的な力を増し、律令国家成立の基礎を築いていきました。 古墳時代を象徴する古墳も時期によって前方後円墳の平面形状、内部主体や副葬品の組み合わせなどが変化しています。内部主体は前期~中期では竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)を代表として、粘土槨(ねんどかく)、箱式石棺(はこしきせっかん)など1度きりの埋葬に利用されるものでしたが、後期になると追葬が可能な横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が採用されました。副葬品は、前期では青銅鏡、鉄剣、鉄鏃、玉類が主体でしたが、中期になると多量の鉄器が加わり、青銅鏡の副葬は次第に少なくなります。また、中期の後半からは、馬具、須恵器(すえき)が新たに加わります。後期になると、青銅鏡の副葬はほとんどなくなり、馬具、須恵器、鉄刀、鉄鏃などの鉄器が副葬品の中心となります。 古墳時代は、東アジア世界の政治的な秩序の中に本格的に位置づけ、国家レベルでの人的交流が行われるようになった時代です。これに伴って、多くの新しい技術がもたらされました。中でも、中期には多くの技術が朝鮮半島からもたらされ、大規模な土木工事や須恵器(すえき)とよばれる新しい焼物の製作も開始されました。また、後期には鉄素材の本格的な生産も開始されています。