広島県の植物研究史 黎明期
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1.黎明期
広島県の植物については,すでに江戸時代の1781(天明元)年に安芸国山県郡有田村(現,山県郡千代田町)の医師小田好道(1720~1786)が広島藩に「山縣草木志」を差し出している.これは山県郡域を中心とする本草書であり,身の回りの植物を丹念に調べた記録である.445種類の植物が取り上げられている.しかしながら,当時は標本を作成し保存するという考えがなかったため,「山縣草木志」に記された植物の実物は残されていない(復刻版,広島市中央図書館編 1992).この頃,広島藩では各郡で産物の調査を行っており,例えば,1780(安永9)年に「佐伯郡諸産物辻寄帳」があり,ツバキの実などいくつかの植物が記述されている.スウェーデンの植物学者トゥーンベリ(C. P. Thunberg, 1743~1828)は1775~1776年に日本に滞在し,多くの新種を記載した.彼は1776年3月に江戸参府の往路で広島県の御手洗(大崎下島)に立ち寄っている(大場 1996).しかし,植物を採集したり観察した記録はない.幕府の監視が厳しかったためであろう.「山縣草木志」が編纂されたのは,このような時代の流れの中であった.
長崎の出島にオランダの医師として来日していたドイツの博物学者ジーボルト(P. F. von Siebold,1796~1866)は,1826年にカピタン一行と共に江戸へ参府している.その帰路で福山市鞆町仙酔島沖に停泊した.その時ジーボルトと共に上陸したドイツ人(あるいはオランダ人)のビュルガー(H. Bürger,1806~1858)によってツメレンゲが採集され,後にこの標本にもとづいて,ロシアの植物学者マクシモヴィッチ(K. J. Maximowicz,1827~1891)が1883年に新種として記載した.これは広島県産の植物を基準種にして初めて学名が与えられたものである.「江戸参府紀行」(1967.平凡社)によれば,この時ジーボルトらの一行は福山市鞆の郊外にある医王寺に出かけ,近くの山でカシ,コナラ,マツ,クリ,エノキ等を観察している.
目次
- 黎明期
- 明治・大正より昭和前期(1868~1945年)
- 戦後(1945年)~現代
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