東広島キャンパスの遺跡/鏡千人塚遺跡

提供: 広島大学デジタル博物館
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鏡千人塚遺跡(農場地区)

鏡千人塚遺跡[1]は標高262~268mの丘陵平坦部を中心に遺構が検出されました。北側および南側は溝によって区画されています。 発掘調査は1980年に広島県教育委員会によって行われ、室町時代の掘立柱建物1棟、積石塚3基、土坑墓24基などが発見されました。さらに、1981年に埋蔵文化財調査室が委員会調査区の南隣接地の追加調査を行い、弥生時代、古墳時代、中世(室町時代)の遺構、遺物を発見しました。

埋蔵文化財調査室の調査地区で発見された遺構をまとめると、次のようになります。

弥生時代

弥生時代の遺構は丘陵平坦面の西南端部で竪穴住居跡1軒が発見されました。また、広島県教育委員会の調査地区でも弥生時代の溝が見つかっています。丘陵平坦部は中世の遺構を構築によってかなり削平されていることから、元々は弥生時代の集落が広がっていたものと思われます。

古墳時代

古墳時代の遺構は、丘陵平坦部から少し南へ下ったところで竪穴式石室1基が見つかりました。中世の溝によってかなり壊された状態でした。

中世(室町時代)

中世(室町時代)の遺構は丘陵平坦面上で積石塚3基、丘陵平坦面からやや南へ下ったところで溝が見つかりました。 積石塚は広島県教育委員会調査地区で見つかった墳墓と同じ時期のものです。また、溝は等高線に沿って掘られており、墓地を区画する役目を持ったものと考えられます。広島県教育委員会の調査成果とあわせると,丘陵平坦部の南北を溝で区切って墓地の範囲を区画し、丘陵平坦面全体を利用したことがわかります。丘陵平坦部に営まれた墓地は出土の遺物から室町時代中頃~後半で、鏡山城が機能していた時代とほぼ一致しています。五輪塔、宝篋印塔などは出土していませんが、鏡山城に直接関連する武士団などが造墓の主体である可能性が高いと思われます。



竪穴住居跡

丘陵平坦面の西南端で見つかった竪穴住居跡です。平面円形ですが、南西側(斜面側)が削平されており、約半分が残されていたに過ぎません。 復元してみると、直径が約 6.3mの規模と推定されます。中央部に一辺約55㎝の方形の炉跡が配されていました。柱穴はこの炉跡を囲むように4本分が見つかりました。柱穴の大きさは直径約30㎝、深さ40㎝前後で、削平された部分にも2本程度の柱穴が存在したものと考えられます。住居内から弥生土器(やよいどき)分銅形土製品(ふんどうがたどせいひん)、石鏃、砥石が出土しました。出土の土器から弥生時代中期末頃(今から約2100年前)の住居跡と考えられます。


竪穴式石室

丘陵平坦部から少し南へ下った緩斜面部で見つかった竪穴式石室です。 中世(室町時代)の溝によって古墳の墳丘は完全に削平されていました。本来は10m程度の円墳であったと思われます。石室の一部も破壊されていましたが、石室の掘り方(石室を作るための大きな穴)がよく残されており、内法で長さ 2.2m、幅約80㎝の規模であることがわかりました。石室の造り方は小口部は扁平で大型の一枚石を使用し、側壁部は大型の石を横長の面内側に向けるかやや扁平な石を立てて使用しています。出土遺物はありませんが、石室の造りかの特徴から見て古墳時代後期前半(5世紀末~6世紀前半)に位置づけられます。


1号積石塚

丘陵平坦部の西南端で見つかった墳墓です。広島大学の調査区では3基の積み石塚が見つかっていますが、その中でもっとも規模の大きいものです。 平面の形は方形斜面を利用して2段になった基壇を造っています。下段は一辺約4m、上段は一辺約2mの規模をもち、基壇の高さは約50㎝です。基壇は東側では不明瞭で、地形的にみても西に面した墳墓と考えられます。土師質土器、青銅銭(せいどうせん)などが出土しました。 ほかの2基の積石塚は、1号積石塚に比べると小規模です。2号積石塚は1辺約1.3mの平面方形の墳墓です。3号積石塚は、土師質土器(はじしつどき)の鍋・釜を利用して蔵骨器とし、その周りに大型の石で囲んでいます。