コケの詩

コケについて詠んだ詩も作られている.永瀬清子が詩集「あけがたにくる人よ」で発表した詩を,井木張二(1987)が紹介している.

永瀬清子は,岡山県熊山町生まれ.東京で深尾須磨子らと交流の後,昭和20年岡山へ移った.この詩が掲載されている永瀬氏の詩集「あけがたにくる人よ」は,第12回地球賞を受けている.

永瀬清子

まだここには

水と土と雲と霧しかなかった何億年の昔

みわたしてもまだ泳ぐものも這うものも見当たらなかったおどろの時

濛濛の水蒸気がすこし晴れたばかりのしののめに

お前は陽と湿り気の中からかすかに生まれたのです

なぜと云って

地球がみどりの着物をとても着たがっていたから

いまでも私たちの傍らにどこでも見られる苔よ

お前は電柱の根っこにもコンクリの塀にも

いつのまにか青をそっと刷いているのね

まして街路樹の下の小さな敷物

敷石のあいだの細いリボン

わかるよ 地球の望み 地球のほしがるもの

冬になっても枯れもせず

年中おまえはしずかに緑でいる

人間はいつもそれをせっせとはがして道路やビルを造っているのに

でも苔は無言でつつましく

自分のテリトリーを守ろうとする

極微の建築をお前はつくる

描けば一刷毛か,点描でしかないのに

それでもお前は大きな千年杉のモデルなのよ

そして絨毛のようなその茎の中に

秘密の清冽な水路があって

雄の胞子はいそぎ泳いで昇って 雌の胞子に出逢うのです

大ざっぱ過ぎる人間には そのかすかな歓びがすこしも聞こえないけれども―

――おお この毛状体のひたすらのびようとする偏見――

――フランシス・ポンジュー――

偏見でぐっと盛り上がっている

私もそのようにありたいよ

それでいて たっぷり水を含んでいれば

まず 土砂くずれや土石流をくいとめる

お前の根はホッチキスの針よりもちいさくても

自分自身が水を溜め 水をこらえる吸取紙

一番下にいる植物 極微のダム

ひそやかにありとも見えぬお前は

日本の景色を支えている

モンスーンがあるかぎり 雲があるかぎり

女が一家を支えるように 愛をはぐくむように

その万遍なさも そのさりげなさも――

人間のつくるすべての劇は

『時』との争いなのに

人と時とが主役なのに

いつも人の方が負けます

苔は人より丈夫なので

劇はなく 黙って舞台の下にいて

そして勝っています

――けさみれば つゆおかでらのにわのこけ

さながらるいのひかりなりけり

ご詠歌集『岡寺』――

おお

瑠璃と云えば精神

天上の景色なので

そんなに高くまで行けるものか?

お前は一番 地面に近いのに――

まず胞子のうが朝の光に輝いている時

その天鵞絨(ビロオド)性に願いがしづしづと降ります

その精神的な敷物の上に 世に疲れた私が座りましょう

シノブゴケ,ホソバオキナゴケ,ヒノキゴケ,ムチゴケ,ジャゴケ,ヤマゴケ,ハナゴケ,シトネゴケ,カモジゴケ,コバノチョウチンゴケ,アオギヌゴケ,シラガゴケ,etc.

夕日がこの庭にさしてきて

木木の陰が 苔の上に長く曳かれます

我等三人のさまよう人の影も――

思っていて会えなかった今日の一日

私は幾億年の時を生きている者たちに逢い

そしてやがて去っていきます

負ける運命を背に負うて

しかもしばしを胞子のうにやどる その美しい露のようにと――

引用文献

  • 井木張二. 1987. 永瀬清子作「苔について」. 日本蘚苔類学会会報 4: 131-132.

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