〜宮島に親しむ〜

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厳島の自然
厳島の鳥居写真 (写真提供: 新谷孝一 氏より)
宮島のサクラ (写真提供: 新谷孝一 氏より)
厳島神社 神能 厳島神社 神能
  厳島神社で能が演ぜられたのは、毛利足就が永禄11年(1586)に京都より八世観世太夫元之と先代宗節を招き、高舞台で奉納したのが初めだといわれている。最初の能舞台は永禄の頃建ったものと思われるが、現在のものは延宝8年(1680)に再建されたと推定され、古きその立地からいっても日本有数の能舞台と言われている。今日、神能は桃花祭の法楽として毎年4月16日より3日間行なわれ、この番組は、毎年1月2日に行なわれる「御松雌囃神能」の終了後取り決めておく習わしになっている。またこの神能に使う能衣裳調度ならびに能面等の質量は全国でもまれで、重要文化財の指定をうけたものもある。
          (写真提供: 新谷孝一 氏より)
舞  楽 舞楽の歴史
  舞楽とは上古、外国から伝えられた音楽と舞いのことで、我が国には推古天皇(592〜628)の代に、三韓から三韓楽が伝えられたものを、大阪の四天王寺に楽所を設けて楽人を養成したのが始まり。この後、奈良朝から平安朝初期にかけて唐楽、天竺楽等が伝えられて来た。このようにして伝えられた舞楽は専ら仏事に使用されてきたが、後には神事にも用いられ、更には宮廷の儀式、公卿の遊びなどに用いられるようになり、我国に於いても僅かではあるが、新しく作られるようになった。
鎌倉時代から後、政治の実権は武家によって治められたが、この舞楽は滅びることなく明治時代を迎え、明治7年、京都、奈良、天王寺の三楽所に伝られた曲譜を整理統合して、一定の楽譜を作り現在に至っている。
 厳島神社の舞楽は平清盛が久安2年(1146)安芸守となり、厳島神社を厚く信仰して社殿の改築や、更に京都文化の一つある舞楽を大阪四天王寺の楽を厳島に移し楽所を設けたのが最初である。現存する重文舞楽面には、承安3年(1173)の朱漆器銘があり、その他の文献によっても、平安末期に舞楽が演奏されていたことがわかる。
       (写真提供: 新谷孝一 氏より)
玉取祭 玉取際
  昼の満潮時(10〜12時)に社殿前の海中で行なう。戦国時代より伝わった行事で、昔は延年と言われ、旧7月14日夜本社拝殿に5尺四方の台をつくり、その中央に福神像(頭は木彫、胴はわらずと)をすえて延年行事を行ない、行事がすんで台がおろされると、待ち構えていた褌一本の男たちにより、福神像のすさまじい争奪戦が演ぜられたといわれている。 今は8月中の日曜日で正午前位が満潮時にあたる日に王取祭を行っている。祭典の後本殿正面の「火焼前」前の海中に4本の柱を立て、大きなやぐらを組んで四面にしめなわを張り、宝珠(楠材・直径6寸)をのせた地盤に宝珠を結びつけ、これを上下に動かすと数百の裸の若者たちがしぶきをあけてこれに飛びつき、宝珠を落とすと、毎中でまた一大争奪戦か展開される。神社境内3ヶ所に設けられた注進所に運んだ人は将来の幸運が約束されるといわれ、またこれを終生の名誉と誇っている。
       (写真提供: 新谷孝一 氏より)
管絃祭 管絃際
  平清盛が当時都で盛んに行われた「管絃の遊び」を宮島に移したのが、管絃祭の起り。雅楽の管絃は、奈良朝から平安朝にかけて日本に伝えられたもので、天子の御遊びや宮廷の公宴、また神事や仏会にも演奏された。この管弦や舞楽を厳島神社に移入したのは、平清盛の時代。若くして妄芸守となった清盛が京都や福原から安芸国へ往復する時に使用した船は、多くの怜人を乗せて管絃を奏するのに格好のものであり、今の管絃祭の起りがここにあるといわれている。
  元禄14年御座船か台風にあったが、幸いにその付近にいた江波村(現広島市)と、阿賀(現呉市)の船がこれをみて、救援に赴き、以後漕船はこの両村の船に限られるようになった。旧暦6月17日の夜行われるが、数日前より九州、四国から大小、の船舶か続々と幟旗を翻して到着し、能舞台周囲から東西の松原に船を繋ぐ。かっては境内で各地から船で持って来た商品を売り、芸能人も渡島したが、中でも芝居は有名で上方役者はここでの芝居を打たないと千両役者にはなれないといわれたほどであった。
  管絃祭では唐楽11曲、独特の催馬楽1種を加え、楽器に倭琴をカロえて管絃を奏するが、宮中を除いて見聞することの容易でない優雅な管絃が行われ、民間唯一の盛儀ともいえる。
         (写真提供: 新谷孝一 氏より)
水中花火大会 花火大会 (写真提供: 新谷孝一 氏より)
宮島の紅葉 宮島の紅葉 (写真提供: 新谷孝一 氏より)
鎮火祭
鎮 火 祭
 毎年12月31日の大晦日の午後6時より火災よけのために行なわれるもので、昔の晦日山伏(つごもりやまぶち)の行事から起ったものといわれており、当時の民家はほとんどそぎ葺きであったにもかかわらず、火の粉が散っても火事にならぬ事を不思議とし、たいまつの余燼を火除の守りとしたところから始まったお祭りといわれている。当夜、本殿の祓殿に祭壇を設け、祭典をすませると斎火を松明にうつし、火気厳禁の廻廊を裸火のままもって、御笠浜(干潮時は御池の干潟)に設けた斎場の松木の大束に火を移す。
 一方各家では、当日までにそれそれ大小、さまざまな松明を作っておき御笠浜に集まる。斎火が松木にうつされ、祈願が終ると同時に火の奪いあいがはじまり、一瞬のうちに松明にうつされた火は、あたりを文字通り火の海と化し、その壮観は言葉に絶するものがある。
             (写真提供: 新谷孝一 氏より)


(宮島 national park MIYAJIMA :宮島観光課・宮島観光協会・宮島包ケ浦自然公園管理センター・宮島町立宮島歴史民族資料館・宮島町立宮島水族館・宮島町伝統産業会館・観光テレホンサービス・町営テレホンサービス・町営旅館案内所・広島県東京事務所物産観光課・広島県大阪事務所、より資料参照,、広島県)