ヒコビア植物観察会
ヒコビア会・宮島自然植物実験所 共催

 ヒコビア植物観察会は,1956(昭和31)年に広島大学理学部植物学教室分類学講座の堀川芳雄教授によって始められた「広島植物採集会」から出発している
この採集会はヒコビア会と広島地方の植物愛好家との話し合いによって誕生し,当初は新聞に案内も出て,貸し切りバスをつらねて参加者は100名をこすこともあったという.
 植物愛好家の3氏が幹事として世話役にあたり,毎月1回開催を原則としていた.
その後,堀川教授が退官された1966年頃にはほとんど開かれなくなったが,大学紛争に巻き込まれた1969年5月に大学院学生有志により再開されたが,その1回目はちょうど学生による理学部封鎖の日であった,学部学生,大学院学生および教官の間の交流を目的として再開したので,参加者は学内の教官と学生が多かったが,毎月1回,雨天決行ということで続けられ,場所選定などの幹事役を大学院生が交代で自分の好みに合わせて開けるようにしていた.

 1977年から宮島自然植物実験所の共催ということで関 太郎 助教授が世話係を引き受けられて,引きを豊原 源太郎助教授に次がれた.その後,豊原助教授の退官され現在は,坪田博美准教授が指導にあたられている。
 学外からの参加者も数多くなってきた.1983年11月から会の名称を「植物採集会」から「植物観察会」に変更したが,自然保護を主張しながら,採集を目的とするような会の名称からくる誤解を避けたいとの思いがあった.また,野草ブ−ムにのって野草を採掘するために会に参加する人に対する歯止めの意味もあったようである.

 その後,参加者は学外者の占める割合が増えて,学生の参加者が少なくなる傾向にあるが,生物学の流が分子生物学関係に偏ってきたことと関係する現象かもしれない.しかし,一般の参加者は多く,少数ながら学生の参加も根強いものがあり,今後も学生のみならず,学外者との交流の場としても続け社会貢献出来ればと思っている.


 ヒコビアとは日本語のひこばえ(木の切り株から新しい芽が再生したもの)をラテン語の女性名詞語尾のようにHIKOBIAと書きかえたもので,広島大学における植物学の研究が原爆の惨禍から立ち直って,たくましく大きく育つことを願って名づけられたものである.終戦の5年後に広島植物研究会(またの名をヒコビア会)が発足し,学術雑誌「ヒコビア」が創刊され今日に続いている.