「植物観察会/KansatsukaiPageMiniLetter451」の版間の差分

提供: 広島大学デジタル自然史博物館 植物
移動: 案内検索
(講演要旨)
(関 太郎:時世時節・雨奇晴好~宮島自然植物実験所の50年)
 
(2人の利用者による、間の5版が非表示)
5行: 5行:
 
==講演要旨==
 
==講演要旨==
 
===黒田 有寿茂:宮島のイスノキ混交林について===
 
===黒田 有寿茂:宮島のイスノキ混交林について===
 [[イスノキ]](マンサク科)は中国中南部,台湾,済州島,日本に分布する常緑高木であり,照葉樹林における主要高木種の一種である.本種は国内では温暖で降水量の多い九州南部,四国南部,紀伊半島南部の太平洋側で優占林を形成し,小雨の瀬戸内地方では少なく断片的となるが,宮島では低~高標高の各所で出現し,島のほぼ中央部に位置する高安ヶ原ではまとまった林分もみられる.このイスノキ混交林の種組成を調べたところ,高木層では[[イスノキ]]のほか,[[アラカシ]],[[コジイ]],[[ウラジロガシ]]などが優占し,亜高木層では[[サカキ]],[[クロバイ]],[[シキミ]],[[テイカカズラ]],低木層では[[サカキ]],[[ネズミモチ]],[[イヌガシ]],[[ミミズバイ]],[[カンザブロウノキ]],草本層では[[マンリョウ]],[[イズセンリョウ]],[[ヤブコウジ]]などが生育していた.[[ミミズバイ]]や[[カンザブロウノキ]]の存在から,本林分は主として太平洋側のシイ林要素により特徴づけられる低地・沿海部型のイスノキ林に含められることがわかった.また,構成樹種の胸高直径を調べたところ,[[イスノキ]]は小~中径木の多い逆J型の連続的なサイズ分布を示したことから,本林分は今後もイスノキ林として存続する可能性が高いことがわかった.[[イスノキ]]が植栽・逸出に由来する可能性は島内全体における分布状況から判断して低いこと,イスノキ混交林の分布する高安ヶ原と同様の立地環境は島内の各所にあり,その局所的分布に対する環境要因からの説明は困難であることから,[[イスノキ]]はかつてより広範に分布し,シイ・カシ類と混生林を形成していたことが推察された.
+
 [[イスノキ]]([[マンサク科]])は中国中南部,台湾,済州島,日本に分布する常緑高木であり,照葉樹林における主要高木種の一種である.本種は国内では温暖で降水量の多い九州南部,四国南部,紀伊半島南部の太平洋側で優占林を形成し,小雨の瀬戸内地方では少なく断片的となるが,宮島では低~高標高の各所で出現し,島のほぼ中央部に位置する高安ヶ原ではまとまった林分もみられる.このイスノキ混交林の種組成を調べたところ,高木層では[[イスノキ]]のほか,[[アラカシ]],[[コジイ]],[[ウラジロガシ]]などが優占し,亜高木層では[[サカキ]],[[クロバイ]],[[シキミ]],[[テイカカズラ]],低木層では[[サカキ]],[[ネズミモチ]],[[イヌガシ]],[[ミミズバイ]],[[カンザブロウノキ]],草本層では[[マンリョウ]],[[イズセンリョウ]],[[ヤブコウジ]]などが生育していた.[[ミミズバイ]]や[[カンザブロウノキ]]の存在から,本林分は主として太平洋側のシイ林要素により特徴づけられる低地・沿海部型のイスノキ林に含められることがわかった.また,構成樹種の胸高直径を調べたところ,[[イスノキ]]は小~中径木の多い逆J型の連続的なサイズ分布を示したことから,本林分は今後もイスノキ林として存続する可能性が高いことがわかった.[[イスノキ]]が植栽・逸出に由来する可能性は島内全体における分布状況から判断して低いこと,イスノキ混交林の分布する高安ヶ原と同様の立地環境は島内の各所にあり,その局所的分布に対する環境要因からの説明は困難であることから,[[イスノキ]]はかつてより広範に分布し,シイ・カシ類と混生林を形成していたことが推察された.
  
 
===豊原 源太郎:宮島自然植物実験所の植生図について===
 
===豊原 源太郎:宮島自然植物実験所の植生図について===
 植生図は植物群落の具体的広がりを平面図に示したもので,植生地図あるいは群落図とも云われる.植生図の用途は様々であるが,時を隔てて植生図化されたものを比較すれば,その変化は一目瞭然であり,植生環境の変化を知るには優れた手段といえる.広島大学には東広島キャンパスと宮島自然植物実験所に森林植生が存在するが,両者とも開発直前の植物社会学的な細密植生図(群落構成種の変化を知ることが出来る植生図)が作成されており,開発後の植生図化も為されている.
+
 植生図は植物群落の具体的広がりを平面図に示したもので,植生地図あるいは群落図とも云われる.植生図の用途は様々であるが,時を隔てて植生図化されたものを比較すれば,その変化は一目瞭然であり,植生環境の変化を知るには優れた手段といえる.広島大学には東広島キャンパスと宮島自然植物実験所に森林植生が存在するが,両者とも開発直前の植物社会学的な細密植生図(群落構成種の変化を知ることが出来る植生図)が作成されており,開発後の植生図化も為されている.広島大学におけるキャンパスの植生が開発後どのように変化したかは,広島大学東広島キャンパスの植生図(縮尺1/3500)が統合移転前の1973年と理学部移転後の1994年に作成されていて,両者の比較により,里山におけるアカマツ二次林が大学移転に伴い農用林として利用されなくなり,マツ枯れ病により枯死して,遷移が急速に進行し,大きく変化したのを読み取ることが出来る.一方,里山が存在しない宮島に存在する宮島事前植物実験所は,1964年に理学部附属宮島植物園として新設された.1964年に作成された最初の植生図は亜高木層の優占種による相観植生図であった.その後,1974年に宮島自然植物実験所および周辺の植物社会学的植生図(縮尺1—3000)が作成された.宮島自然植物園付近の森林は明治初期の山火事跡に成立したアカマツ二次林が手つかずのまま自然に保たれていたが,植生図作成前後に急速にマツ枯れが進行し,立ち枯れ木の伐採搬出が一気に行われたので,1974年の植生図は人手が加えられる直前の植生図ということになった.アカマツ二次林は種組成の違いにより幾つかの群落に下位区分され,それは遷移段階の違いを示すものであった.植生図では斜面方位や地形と遷移との関係が深いことを読み取ることが出来る.立ち枯れ木の伐採搬出後の1980年に2回目の植生図化がなされた.伐採搬出による撹乱を受けた二次林では林床に[[コシダ]]や[[ウラジロ]]が繁茂して,撹乱による退行遷移が生じ,遷移段階初期の群落に変化した所が多く見られたが,実験所の一部で枯れマツを伐採搬出しないで自然状態を維持したところではマツが枯れても退行遷移が見られない事がわかった.以後宮島ではマツ枯れ跡は自然の回復力にまかせる事になり,ブルドーザーを使用して伐採搬出をしないことに方針転換された.3回目の植生図化は2000年に為され,4回目は2009年に為された.その結果,平地や沢筋では遷移の進行が順調であるが,尾根筋や向陽地では依然としてシダの繁茂が止まらない.1980年以後マツ枯れ跡は自然に放置することにしたが,[[コシダ]]や[[ウラジロ]]の繁茂による退行遷移をした場所は30年たっても進行遷移に転じないという問題が明らかになった.
 広島大学におけるキャンパスの植生が開発後どのように変化したかは,広島大学東広島キャンパスの植生図(縮尺1/3500)が統合移転前の1973年と理学部移転後の1994年に作成されていて,両者の比較により,里山におけるアカマツ二次林が大学移転に伴い農用林として利用されなくなり,マツ枯れ病により枯死して,遷移が急速に進行し,大きく変化したのを読み取ることが出来る.
+
 一方,里山が存在しない宮島に存在する宮島事前植物実験所は,1964年に理学部附属宮島植物園として新設された.1964年に作成された最初の植生図は亜高木層の優占種による相観植生図であった.その後,1974年に宮島自然植物実験所および周辺の植物社会学的植生図(縮尺1—3000)が作成された.宮島自然植物園付近の森林は明治初期の山火事跡に成立したアカマツ二次林が手つかずのまま自然に保たれていたが,植生図作成前後に急速にマツ枯れが進行し,立ち枯れ木の伐採搬出が一気に行われたので,1974年の植生図は人手が加えられる直前の植生図ということになった.アカマツ二次林は種組成の違いにより幾つかの群落に下位区分され,それは遷移段階の違いを示すものであった.植生図では斜面方位や地形と遷移との関係が深いことを読み取ることが出来る.立ち枯れ木の伐採搬出後の1980年に2回目の植生図化がなされた.伐採搬出による撹乱を受けた二次林では林床にコシダやウラジロが繁茂して,撹乱による退行遷移が生じ,遷移段階初期の群落に変化した所が多く見られたが,実験所の一部で枯れマツを伐採搬出しないで自然状態を維持したところではマツが枯れても退行遷移が見られない事がわかった.以後宮島ではマツ枯れ跡は自然の回復力にまかせる事になり,ブルドーザーを使用して伐採搬出をしないことに方針転換された.3回目の植生図化は2000年に為され,4回目は2009年に為された.その結果,平地や沢筋では遷移の進行が順調であるが,尾根筋や向陽地では依然としてシダの繁茂が止まらない.1980年以後マツ枯れ跡は自然に放置することにしたが,コシダやウラジロの繁茂による退行遷移をした場所は30年たっても進行遷移に転じないという問題が明らかになった.
+
 
+
 
+
  
 
===関 太郎:時世時節・雨奇晴好~宮島自然植物実験所の50年===
 
===関 太郎:時世時節・雨奇晴好~宮島自然植物実験所の50年===
18行: 14行:
  
 
----
 
----
 
 
[http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~museum/ デジタル自然史博物館] / [http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html 広島大学] /
 
[http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~museum/ デジタル自然史博物館] / [http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html 広島大学] /
 
[http://miyajima.hiroshima-u.ac.jp/museum/ 宮島自然植物実験所] /
 
[http://miyajima.hiroshima-u.ac.jp/museum/ 宮島自然植物実験所] /
32行: 27行:
 
[[Category:植物観察会]]
 
[[Category:植物観察会]]
 
[[Category:勉強会]]
 
[[Category:勉強会]]
 +
[[Category:2015]]
 +
[[Category:遷移]]
 +
[[Category:生態]]

2019年2月16日 (土) 08:49時点における最新版

目次

ヒコビアミニレター No. 451(2016年2月10日)

 2015年12月23日の第575回植物観察会は,広島県東広島市鏡山1-3-1の広島大学西条キャンパス理学研究科・理学部E棟E002号教室で13時30分より行われた.天気はくもりのち雨で,参加者は63名.2013年からはじめた勉強会として開催したが,観察会事務局を担当する広島大学大学院理学研究科附属宮島自然植物実験所の設立50周年記念シンポジウムも兼ねた内容とした.はじめに,楯真一先生(広島大学大学院理学研究科・研究科長)と高橋陽介先生(宮島自然植物実験所・所長)の挨拶があった.次に,坪田が宮島自然植物実験所の設立からの経過と活動について紹介した.その後,講演が3題あった.今年は宮島自然植物実験所あるいは宮島をテーマとした講演内容とし,黒田有寿茂先生(兵庫県立大学・講師/兵庫県立人と自然の博物館・研究員)と豊原源太郎先生(元宮島自然植物実験所),関太郎先生(広島大学名誉教授)に講演頂いた.黒田先生には,「宮島のイスノキ混交林について」と題して,イスノキ林を中心に宮島で見られる植生について解説頂いた.豊原先生には,「宮島自然植物実験所の植生図について」と題して,実験所周辺で継続して行われてきた植生図を使った研究を中心に,宮島の植生への松枯れの影響について解説頂いた.関先生には,「時世時節・雨奇晴好~宮島自然植物実験所の50年~」と題して,実験所の設立経緯から経過,社会貢献活動などについて紹介頂いた.詳細は講演要旨をご覧頂きたい.宮島自然植物実験所は小さな教育・研究施設ではありますが,地元に根ざした施設として,新しい50年に向けて進んでまいります.

(H. Tsubota & S. Uchida 記)

講演要旨

黒田 有寿茂:宮島のイスノキ混交林について

 イスノキマンサク科)は中国中南部,台湾,済州島,日本に分布する常緑高木であり,照葉樹林における主要高木種の一種である.本種は国内では温暖で降水量の多い九州南部,四国南部,紀伊半島南部の太平洋側で優占林を形成し,小雨の瀬戸内地方では少なく断片的となるが,宮島では低~高標高の各所で出現し,島のほぼ中央部に位置する高安ヶ原ではまとまった林分もみられる.このイスノキ混交林の種組成を調べたところ,高木層ではイスノキのほか,アラカシコジイウラジロガシなどが優占し,亜高木層ではサカキクロバイシキミテイカカズラ,低木層ではサカキネズミモチイヌガシミミズバイカンザブロウノキ,草本層ではマンリョウイズセンリョウヤブコウジなどが生育していた.ミミズバイカンザブロウノキの存在から,本林分は主として太平洋側のシイ林要素により特徴づけられる低地・沿海部型のイスノキ林に含められることがわかった.また,構成樹種の胸高直径を調べたところ,イスノキは小~中径木の多い逆J型の連続的なサイズ分布を示したことから,本林分は今後もイスノキ林として存続する可能性が高いことがわかった.イスノキが植栽・逸出に由来する可能性は島内全体における分布状況から判断して低いこと,イスノキ混交林の分布する高安ヶ原と同様の立地環境は島内の各所にあり,その局所的分布に対する環境要因からの説明は困難であることから,イスノキはかつてより広範に分布し,シイ・カシ類と混生林を形成していたことが推察された.

豊原 源太郎:宮島自然植物実験所の植生図について

 植生図は植物群落の具体的広がりを平面図に示したもので,植生地図あるいは群落図とも云われる.植生図の用途は様々であるが,時を隔てて植生図化されたものを比較すれば,その変化は一目瞭然であり,植生環境の変化を知るには優れた手段といえる.広島大学には東広島キャンパスと宮島自然植物実験所に森林植生が存在するが,両者とも開発直前の植物社会学的な細密植生図(群落構成種の変化を知ることが出来る植生図)が作成されており,開発後の植生図化も為されている.広島大学におけるキャンパスの植生が開発後どのように変化したかは,広島大学東広島キャンパスの植生図(縮尺1/3500)が統合移転前の1973年と理学部移転後の1994年に作成されていて,両者の比較により,里山におけるアカマツ二次林が大学移転に伴い農用林として利用されなくなり,マツ枯れ病により枯死して,遷移が急速に進行し,大きく変化したのを読み取ることが出来る.一方,里山が存在しない宮島に存在する宮島事前植物実験所は,1964年に理学部附属宮島植物園として新設された.1964年に作成された最初の植生図は亜高木層の優占種による相観植生図であった.その後,1974年に宮島自然植物実験所および周辺の植物社会学的植生図(縮尺1—3000)が作成された.宮島自然植物園付近の森林は明治初期の山火事跡に成立したアカマツ二次林が手つかずのまま自然に保たれていたが,植生図作成前後に急速にマツ枯れが進行し,立ち枯れ木の伐採搬出が一気に行われたので,1974年の植生図は人手が加えられる直前の植生図ということになった.アカマツ二次林は種組成の違いにより幾つかの群落に下位区分され,それは遷移段階の違いを示すものであった.植生図では斜面方位や地形と遷移との関係が深いことを読み取ることが出来る.立ち枯れ木の伐採搬出後の1980年に2回目の植生図化がなされた.伐採搬出による撹乱を受けた二次林では林床にコシダウラジロが繁茂して,撹乱による退行遷移が生じ,遷移段階初期の群落に変化した所が多く見られたが,実験所の一部で枯れマツを伐採搬出しないで自然状態を維持したところではマツが枯れても退行遷移が見られない事がわかった.以後宮島ではマツ枯れ跡は自然の回復力にまかせる事になり,ブルドーザーを使用して伐採搬出をしないことに方針転換された.3回目の植生図化は2000年に為され,4回目は2009年に為された.その結果,平地や沢筋では遷移の進行が順調であるが,尾根筋や向陽地では依然としてシダの繁茂が止まらない.1980年以後マツ枯れ跡は自然に放置することにしたが,コシダウラジロの繁茂による退行遷移をした場所は30年たっても進行遷移に転じないという問題が明らかになった.

関 太郎:時世時節・雨奇晴好~宮島自然植物実験所の50年

 昭和4年(1929),広島文理科大学の設立以来,植物学の野外実習施設を設置しようという計画があり,八幡高原・道後山・五日市(現在の広島市植物公園付近)などが候補に挙がった.宮島が本土にもっとも接近している室浜には,日清戦争の賠償金で帝国陸軍によって「室浜砲台」が設置された.第二次大戦後,この「室浜砲台」と大元から室浜への道路部分が大蔵省の管理となり,昭和38年に文部省に移管された.この用地に,「理学部附属自然植物園」が昭和39年(1964)7月10日に開園し,昭和40年2月に建物ができた.これは「学内措置」で,文部省が正式に認めたものではなかった.大学本部から年5万円の予算がついただけで,常駐する管理人(技能補佐員)の人件費は理学部,電気代・プロパン代・その他の諸経費は理学部植物学教室が負担した.昭和40年には管理人として白倉夫妻が常駐し,当時,大学院生であった豊原源太郎さんを中心に学部生だった中野武登さん,浅野美代子さん,津郷明義さん等が泊まり込みで研究にいそしんだ.豊原さんは学部卒論の時から,海岸にテントを張って調査をされた.初代園長は堀川芳雄先生で,昭和41年(1966)3月に停年退官され,2代園長として辰野誠次先生が着任された.同年,関が教務員として赴任し,管理人は谷口夫妻に代わった.あれから49年,「時世時節~時代のなりゆき」,「雨奇晴好~雨の時も晴の時もすばらしい」.「理学部附属自然植物園」は学内措置であって,ぜひとも文部省が正式に認める「学部附属教育研究施設」として昇格することが,緊急の課題であった.昭和49年(1974),国立学校設置法の一部改正により「理学部附属宮島自然植物実験所」が設置され,教官定員として助教授1名がついたが,技官の定員がつかなかった.これが,後に,施設経費を圧迫する大きな要因になった.大元~室浜間の道路は未舗装で,梅雨や台風による路面損傷・がけ崩れが多発.松枯れとともに,大学事務部はそういう問題には不慣れで,関は対応に苦慮した.その後,大元~多々良間の道路部分は宮島町へ無償貸与され,舗装された.多々良~室浜間は,台風などの災害復旧費を大蔵省に申請して,少しずつ舗装した.宮島の松は昭和36年頃に西部から枯れ始めた.広島営林署は松材を高い価格で販売するため,緑の葉が残っている木でも伐採した.枯れ松の伐採は下層植生に甚大な被害を及ぼし,「一松功成って万木枯る」(“一将功成って万骨枯る”をもじったもの)の有り様.大学では枯れた松も植生の一部として保存した.「広島大学は枯れ松を放置して,害虫をまき散らしている」と報道され,行政監察庁から注意を受けたこともあった.しかし,枯れそうな松を保存した結果,「宮島ア54号」という最高の抵抗性を持つアカマツが発見され,これを母樹として「スーパー松」が育成され,現在,各地に植栽されている.宮島の松枯れに対して,広島県教育委員会は,昭和47年度の国庫補助金を得て,国指定の天然記念物「彌山原始林緊急調査」を実施し,48年度には全島に拡大した.これに植物分類学講座が,鈴木兵二先生指導のもと全面的に参加した.折から大学紛争で理学部が閉鎖されたこともあって,自然植物園に泊まり込みで調査にあたった.当時,宮島町は財政が潤沢で,報告書『厳島の自然』は490ページ,付図・付表を含む豪華印刷となった.昭和50年(1975),宮島自然植物実験所の発足をうけて,植物形態学・植物分類学・植物生理学の3講座[後に細胞構築学も加わる]が共同で宮島の優れた自然を活用して,学部3年生を対象とした実習が始まった.昭和52年(1977)に,鈴木兵二所長の提案で「ヒコビア植物採集会」(後のヒコビア植物観察会)を宮島自然植物実験所の業務として行うことになった.この観察会の活動を通じて,広島県の植物相の調査が進展し,それをまとめたものとして『広島県植物誌』(1979)が出版された.その証拠標本は実験所に保管されている.この50年間,「時世時節・雨奇晴好」,ずっと変わらず支えて下さった広島大学理学部[現・大学院理学研究科]の植物学教室と歴代の管理人に心から感謝の念を捧げたい.


デジタル自然史博物館 / 広島大学 / 宮島自然植物実験所 / 植物観察会のトップ / 過去のヒコビアミニレター / 古いNews | 植物 にもどる